今私どもは自身の「介護」を見つけ始めているのかもしれない


Ⅰ.はじめに

 ユニットケアは老人福祉法に規程された運営基準にて定められた施設であり、現在特別養護老人ホームのケアのあり方で今後の理想として国により位置づけられている感があるケア方法である。従って例えば、特養を新設しようとすると補助金の見返りとしてユニットケアへと行政指導をされたり、又診療報酬の施設基準として職員数あるいはユニット単位のケアを保証する意味でユニットリーダーの配置を必須化したりしている。しかもそのリーダーの資格基準は厚生省の外部団体である「一般社団法人日本ユニットケア推進センター」に完全に委ねられており、その団体でユニットケア全体の研修が実施されている。このような形で現在、そして今後の高齢者入居施設におけるケアはユニットケアが理想であり今後も日本に於ける入居施設のケアのスタンダードはユニットケアであり続ける体制が完全に出来上がっているのである。
 一方、1960年代より北欧諸国より広がり70年代、80年代と世界的に定着した「ノーマライゼーション」の考え方に基づき、介護が必要な高齢者も当然、地域で生活するとの介護目的を定め、それに適した介護の確立の模索が開始し、2000年代に入り自立支援介護の確立、そして実践が開始された。それは「医学モデル」、特にリハビリテーションサイドの先駆者たちが地域リハビリテーションの技術を発展する形で施設に於けるいわば「社会復帰」の技術として、オムツをはずしたり、歩行訓練をしたりしながら、その技術体系を作り上げてきたのである。
 その技術体系を本格的に施設介護に取り入れたのは、国際福祉大学の竹内孝仁氏であった。氏はそれを全国老人福祉協議会の組織内にて定着化し全国に拡大し始めたのであった。これがユニットケアと自立支援介護の出自である。
 さて、この性格も目的も違う2種類の介護のやり方が介護現場では整理されることなく存在しているのである。その結果、様々な混乱を生じさせている。今日はその整理を試みて、今後の私どもの介護に対する方向性を考えてみたい。

Ⅱ.〈ユニットケアとは〉

1.ユニットケアとは
 それでは「ユニットケア」とは何なのか、改めて整理してみよう。
 それは提唱者であり、国が定めた推進者である「一般社団法人 日本ユニットケア推進センター」によると
法人理念として
「高齢者が住み慣れた地域や家で暮らし続けることを支援するとともに施設に入居しても一人ひとりが住みやすく生活しやすく、安心してそれまでの自律的な暮らしが継続できる施設づくりを目指します。」であり、それを具体的な説明として
「ユニットケア」とは
「自宅に近い環境の介護施設において他の入居者や介護スタッフと共同生活をしながら、入居者一人一人個性や生活リズムに応じて暮らしていけるようにサポートする介護手法のことを指します。」としている。
 そのため、入居者の尊厳ある生活を保障していくために一人ひとりの個性と生活リズムを尊重した「個別ケア」が求められている。「個別ケア」を実現する一つの手法が「ユニットケア」なのだ。

2.個別ケアとは
 キーワードは「個別ケア」につきると思う。そのため、例えば、
 1.建物や景観に工夫が必要
 「個別ケア」重視のため、家をおもい出させたり、光や風を感じ、安心を抱いていただける工夫

 1.普段と変わらない暮らしを保障
  高齢者が家で暮らすように「いつもの人と」「いつもの時間に」「いつもの仲間が」「いつもの生活」を可能な限り保障

 1.「自分の居場所」を設ける
  個別性を保障された集団生活
 ・自分だけが勝手に使えるほっとする場所を確保
 ・自分で用意した愛着ある品
  例えば、自分用の洗面台、台所などを保障

 1.地域を感じる活動、あるいは地域活動の
 ・地域に出て行く
 ・外に出られない人は施設内に模擬店など

  一人ひとりの個性と生活リズムに合った「個別ケア」を実施するのがユニットケアである。

3.ユニットの視点
 ユニットケアセンターの説明を読んでいると次の事に気が付く。
 ケアのやり方、あるいはケアに対する理念を語っているが、視点は「介護する側」による視点であり、「介護する側が何をするか」に終始している。
 「介護する側」が利用者の個別性を保障する為に何をやるか、その方法論と考え方が
「ユニットケア」であると言い換えてもよい。なぜそうなるかも明確である。
 現在、診療報酬改定時に必ず議論になることがある。それは、国は個室化、あるいはユニットケア化の政策誘導の必要性からユニットケア、個室と大部屋との点数格差をつけながら進めようとしている。それに対し老施協を中心とした介護現場は必ず大部屋の必要性を声高に主張することが繰り返されている。
 だが、この流れはもはや止めることもできない。ユニットケアあるいは個室化は時代の流れなのである。なぜならばユニットケアは措置時代の大部屋介護の非人間性ケアの深い反省から始まっているからである。行政による措置の名のもと入所者を8人あるいは6人一部屋につめこみ集団介護が常であったのであった。
 それが介護保険制度施行後措置を契機にサービス提供の考え方が根本的に変わったのである。行政による措置行為として特養の入居が決定していた事に対し、今や利用者個人と施設側との契約により入居が決定される方法に変化したのであった。このことは個人契約なのである。従ってケアも個別性が要求されるのは当然のことであり、原理的には個別ケアが実施されなかったら契約違反なのである。
 だから、「ユニットケア」はあくまで「介護する側の論理」に徹するのも当然のことなのである。措置時代の大部屋、集団介護の反省、あるいはアンチテーゼとしてのユニットケアなのである。そこには当然施設生活のやり方以外のことは問題意識の外のことなのである。
 だがしかし、国は現在にあって来るべき2025年問題を前にして、絶対的な施設不定という現実に屈する感で、多床室をも認めることを決定した。ただし、個人のプライバシーに配慮することを前提にし、かつ多床室からも使用料を徴収する形で判断を利用者本人に委ねる形を前提にしてではあるがいずれにしても、問題なのはたとえばユニットケア研修を国から一手に委託を受けて実施している「一般社団日本ユニットケア推進センター」の説明文によると、ユニットケアは老人福祉法第33条に規定され「入居前の居宅における生活と入居後の生活が連続したものとなるよう・・・」
がユニットケアの目的であると記されている。こうである手前勝手な法解釈をせざるを得ないのであろう。「ユニットケア」の概念の中には地域、あるいは在宅生活かに対するイメージがないのである。かつての措置時代の大部屋生活は実質的に地域社会から隔絶した社会であり、社会的認識として「終の住居」であり「姥捨て山」だったのである。
 実は同法は前記した「その居宅における生活~」と記されているがその章の前に「その居宅における生活への復帰を念頭に置いて入居前の居宅における生活~」と記されているのである。
 ユニットケアは前提として「居宅における生活の復帰」がある。このことが措置時代における特養を代表とする入居施設の役割の変化、あるいは位置づけの違いのはずであるのだ。

Ⅲ.自立支援型介護とは

 現在使われている「介護」という言葉、そしてその概念が語られ始めたのは古い事ではない。むしろ昭和の末期頃からであり、極めて新しい概念である。
 それは先に記してきたように1970年、80年代に北欧を中心にして始まった障害者の自立運動「ノーマライゼーション社会」の構築運動を支えた考え方に起因している。障害者と健常者が共に暮らせる社会づくり、地域づくりをめざし、それを前提にした障害者側の生活スタイルを支える考え方として「自立生活」があり、そしてそれを支える介助者側、支援者側の考え方として「自立支援介護」あるいは「自立支援援助」が確立してきたのであった。
 一方、2001年5月の世界保健機関(WHO)の総会でICF(国際生活機能分離)が採択され、障害の定義が「医学モデル」にかたよりすぎ、人間の生活スタイルを考えた場合、それにもまし「 社会モデル」との2面性から定義されるに至り、「医学モデル」にあっては障害を個人の問題としてとらえ、病気やけがなどから生じるものであり専門職による個別的治療を行うことに主眼がおかれる。
 それに対し「社会モデル」は障害を社会によってつくられた問題としてとらえ障害は個人に帰属するものではなく社会のあり方を変えることで解決へと導くとの考え方が世界的に確立したのであった。
 このような時代背景の元、日本においても来たるべき高齢化社会に直面する高齢者対策があらゆる面で社会・政治問題化し始めた。それが1990年代であった。高齢者介護はこのような時代に生まれ確立しはじめたのであった。
 それはやはり「医学モデル」から始まっている。人の心体的機能の改善はその人の生活スタイルの改善という結果を通してはじめて役立つとのごく当たり前の考え方がこのごろ確立、定着したのであった。リハビリテーション医療の確立である。「医学モデル」と「社会モデル」の2面が相互に確立し合ってはじめて「ノーマライゼーション社会」の成立が可能となるのである。このような背景のもとリハビリテーション専門医の中から今日の「自立支援介護」の思想的、技術的な根幹を創る作業が始まった。その第一人者の一人は太田仁史氏(茨城県立健康プラザ管理者)である。氏は「からだを通じて心にふれる。心が動けばからだが動く」と有名な言葉で語り現在の地域リハビリテーションの体系を、実践を通してつくりあげたのであった。

   このように自立支援介護はその発生はあくまで「医学モデル」からであり、そこに生活の視点の欠如から「生活モデル」が加わり、その2面の視点を得ることにより「リハビリテーション医療」が格段の飛躍を得、その流れの中に高齢者リハビリテーションという考え方が生まれ、その延長線に「自立支援型介護」が存在しているのである。従って、今私どもは介護プロパーから「自立支援型介護」にアプローチはしていない。あくまでリハビリテーション医療の延長線としてそれを有しているのにすぎないのである。ここに今私どもが抱え、「介護」が抱えている問題が有ると思う。

Ⅳ.「ユニットケア」と自立支援型介護は対立概念か

 先に「ユニットケア」と「自立支援型」について記したが現実に帰ってみよう。
 私どもは特養経営の直接的な必要から毎年スタッフをユニットケアリーダー研修に参加させている。本年も3人のリーダー格のスタッフを参加させた。その研修報告書はきまって次の報告をしてくる。
 それは、ユニットケア研修は個別ケアの研修故か、かく利用者本人に寄り添い利用者の思考の深いところをさぐることが課題であると言われいわば沈思黙考するかの如くである。その結果、施設が静かであり、非常にゆったりとした時間が流れ、利用者の時間に合わせた、ある意味で理想的な介護であり、介護現場である。
 それにひきかえ、我々の職場は例えば廊下で歩行訓練がされていたり、水分や食事の摂取に努力したり、とにかく動きがあり、忙しげである。
 と・・。両者の違いに研修参加者は決まって戸惑うのである。これが毎年の行事の如く繰り返される。たしかに「ユニットケア」と「自立支援型介護」は「介護」という物差しから見れば何という矛盾はない。なぜならば、両者とも「介護する側」の論理を前提としており、介護側の思考のアプローチの違いがそうさせているからである。従って対立概念でもなく、あれが良くてあれがだめということでもない。うまくポジションが合い、2方向がそれぞれの場所におさまり、両立し、両方とも実施できればこのうえなく利用者にとって理想的な介護の提供になると思われる。なぜならば両者とも「介護する側」の論理を前提としており、介護側の思考のアプローチの違いがそうさせているからである。
 だが、現実はゆったりとした「ユニットケア」が私どもの介護の理想である、との結論を得るスタッフもいるのである。それは両方の側から課題、あるいは問題点として言える「ユニットケア」側からは国の政策、または特養の運営側から考えることなく、このケアシステム、ケア理念が絶対であり、これに従わなければ取るべき収入も入ってこないとの普及スタイルの問題であり、結果的に「ユニットケア」の理念、方法、考え方が絶対であるとの現実を植え付けていることに問題、課題がある。「個別ケア」なる課題は介護の大前提であり「ケア」の必須条件でもある。
 従って、それは「ケアの大枠」そのものであり、例えば自立支援型介護もそのユニットケアの大枠の中に位置づける必要が当然あるのだ。
 だが、研修に参加した者は全員、ユニットケアか自立支援型ケアかの対立概念として「なやみながら」帰ってくる。この問題は「ユニットケア」側の思考の狭さに問題が在るのであろう。
 一方、「自立支援型介護の側は」先に記してきたように、その出自が「医学モデル」にある為か、個別課題の中に普遍性をつい追求しがちで類としての症例を見つけに行く。その結果、個別性を無視しがちで類型を求め、その中に個別を押し入れがちになる。
 従って、利用者の個別性、あるいは「生活モデル」からのアプローチをないがしろにしがちである。すなわち「自立支援型介護」を追求するあまり、ユニットケアがもつ「個別性」、それから発する「ゆとり」をなくしがちなのである。
 だから、「このような介護は忙しくてゆっくりと介護する時間がない」など陳腐な言葉がスタッフから聞こえたりもするのである。
 だがしかし、この問題はいずれも介護者側の知識、経験の浅さが起因していることではあるが、現実の私どもの到達点はこうなのである。

Ⅴ.「介護」ってなんだ

1.医療の延長としての介護か
  先に記してきたように少なくとも「自立支援型介護」の出自はリハビリ医療モデルから、それもICF概念が定着し「医学モデル」と「生活モデル」の両者から「リハビリテーションモデル」は成り立っているし、その考え方の延長から自立支援介護の概念は発生していると述べてきた。
 その次が問題である。
 医療の延長として「自立支援型介護」があるのならば、「介護」の存在は言葉だけであり「介護」の概念の拡大、あるいは「介護」の自立などは考えづらい。そこで具体的に例示しながら考えてみよう。

 ・具体的な例示
  まず、「介護」の必要性あるいは「その必要な領域は介護なのか」
  かつて何年か前、医療サイドから自己批判的に次のような疑問が投げかけられたことがある。色々あるが、その代表的なことは
  1.高齢者になり、衰弱してきたり、脳卒中発作で麻痺が残ったりすることで、寝たきりになることはいたしかたない。

     1.寝たきりの人の改善は「リハビリテーション」しか方法がない。

     1.認知症は脳の病気で病状が徐々に進行する病気である。
  等々である。
  さすが今ではこのような疑問などはあまり聞くことがなくなったが、古くはこのような話はあまり違和感なく語られていたのであった。
  そのころに「廃用症候群」と不思議な言葉も世に定着し始めたのである。
  それは生活不活発病と言い換えられたりはするが、要は「医学モデル」の中から治療の必要性から生じるマイナスの面の課題が、問題となったのである。
  そのようなことが時代的要求になったのであった。それはたとえば、治療の必要性から安静を保ったりすると高齢者は数日間で陥ったりする状態である。またたとえば、胃瘻の造設等である。病気を治す目的のため生じた不具合が生活上の不具合を生じさせることが問題として社会化し、それを生活上の必要から改善する必要が生じ、そこに「介護」の必要性が生まれたのであった。
 しかも、家庭介護の延長では対応しかねる専門性を必要とすることが生まれたり、より合理的に生活上の不便を改善する専門的知識、あるいは技術が発生したりして「介護」の領域が徐々にではあるが、生まれつつあるのであった。

2.「介護の必要性」
  例えば、私どもは「おむつはずし」にこだわりを持っている。それはなぜか・・・ 「介護」の基本的な理念に介護される側に利用者の尊厳の保証、あるいは確保「人間らしさ」の追求があるとされている。「尊厳」などという言葉はあまりにも抽象的すぎて何だかわからない。
 そこで尊厳の反対語が虐待とすればわかりやすい。たとえば、「人前で排泄させることは」尊厳の否定・虐待と言える。24時間おむつに排泄している状態はやむを得ない現実は確かにあるかもしれないが、しかし私どもの判断基準は目の前の現実だけではないが故に普遍的な価値を基準にしたいのだ。

   さて、この普通の価値に近づけるため、第一に「オムツはずし」がある。
  おむつはずし、言い方をかえればトイレでの排泄である。そのすべては背もたれなしで座る(端座位)ことが可能となれば完成である。
 そうすれば「トイレに行くことが可能となり」
 そうすれば「外出もできるようになり」
 そうすれば「旅行だって」
 また、端座位がとれれば、2人介助でトイレ利用が可能となり、それができれば一人でのつかまり立ちができれば介助者一人でトイレ利用が可能となり、つかまらずに立てれば、介助者は利用者のバランスを崩さないように見守りで済むようになる。
 このようにして、自立への移行が可能となるのである。このことは利用者の生活価値に変化をもたらすのである。ここに介護の専門性をイメージする鍵の一つが存在する。

 第2に心理的面から見ると、人は何らかの障害によりあるいは加齢により、1人で排泄ができなくなったときの心理的打撃は「人間として生活をする価値はない」とさえ思い込み、プライドそのものが傷つき、人間的価値まで奪い去られたと思うのが普通である。また、例えば、失敗の繰り返しから排泄に対し自信をなくし、あきらめや生きる気力までをもなくし、排泄の介護を受けたことをもって、あるいはきっかけに生活全般が依存的になるなどさえするほどである。
 「おむつ着用」は普通の人にとっては人間存在の価値におよぶ大問題なのである。ためしにみんな着用してみれば誰しも味わう、あの「違和感」「不安感」それにもまし、こらが常態になることの「悲壮感」・「不快感」他に在るとあらゆる不具合の表現をしようしても、あまりあるほどの感覚、確かに人生終わりの感がする。
 しかし、それが常態になると逆におむつのないことの不安感に陥ってくるのである。不思議である。そのことが「おむつ依存」の落とし穴である。その利用高齢者の心の変化は「自立心」をなくし「回復しようとする意志」を剥ぎ取り、「あきらめ」「生きる希望」さえなくし本人の自立を阻害し、あきらめ・他者依存・寝たきり病症候群とさえ言える心的状況に陥れるのである。
 入居施設の多くの利用者はこの状態なのであろう。

 「おむつはずし」の効果は
  何とかして「おむつ」をはずすことは第一に寝たきりから活動域を広げる結果を生む。第二に「寝たきり症候群」と呼ばれる他人依存症から「回復しようとする意志」の再びの覚醒、自主性の回復、生きることの希望が生まれる。
 このような身体的、精神的変化をもたらすのである。先に私どもの施設のスタッフが「ユニットケア」の研修報告書に「ユニットケア」現場は静かでゆったりした時間が流れている。それに比べて私どもの自立支援型介護の現場はなんと騒がしい事か。と報告をしていたが、当然のことである。「自立支援型介護」の現場は活気が生まれるのである。
 ここで注意したいのは「利用者」の活気であり、その活気を生む自立性の問題である。
 おむつ生活何ヶ月、何年、もうすっかりおむつに排泄し、オムツの交替に身を任せることに慣れ切ってしまった要介護者は当然、自立性を崩壊し、主体性をも崩失しかねない状態である。まるで病院で語られる「廃用症候群」患者である。
「介護されるとは病者になることではない」私どもの介護のしごとは、このあたりが必要とされていることではないか。それ故に、自立支援型介護の必要性が生まれてきているのだ。それと同時に「ユニットケア」のケア理論には「廃用症候群」を生み出す危険性を常に含んでいるし、その事実を生み出している。

3.「介護」の必要性、「ユニットケア」から見て
  介護を必要とすることは、日常の生活に何らかの支障があり、そこから介護サービスの必要性が生まれる。この日常生活とは動作に基づく活動と認知に基づく活動を基礎としている。
 また、人は体の機能と生活レベルの活動と社会活動の3つの活動が重なって日常生活がある。この活動に何らかの手段により補完し、生活が送れるようにするために「介護」がある。だから、介護には利用者一人一人の方法、手段を必要とし、1人1人に合った支援を必要とする。なぜなら、介護を必要とする人は一人一人、生活歴が違い、身体の動きも一人一人異なるからである。
 「個別」ケアは介護という言葉と言い換えてもおかしくなく「介護」=「個別」ケアなのである。集団としての介護等概念として有り得ないのである。「介護」サービスとはこの一人一人の生活歴、身体的特性から発する問題に介入する技術の事なのである。
 従って「介護」は当然のこととして、利用者の身体的、社会的な問題から発する課題に対し、共感し、介護者の基準をもってして、その不便さを改善することに仕事がある。だが、悩ましいのは時として過度の共感を生んだり過度の奉仕を生んだりする点である。
 医療の場合は疾病に対する治療という明確な目的があり、行為のすべてがそこを基準にして語られるが、介護の場合、それが見いだせないのがすべての問題の出発点である。
 例えば、「ユニットケア」は個別ケアである等のごく当たり前の話はさておき、利用者と介護者が深い共感、あるいは深い人間関係を結ぶための手段としてそれが語られ実践されるならある意味で「介護」の本筋である。
 だが、なやましいのは応々にして介護する側、される側とも過度の共感や過度の奉仕を生じさせたりし、「介護」の客観性を崩壊してしまうことなのである。
 例として、現在私どもの特養にあっては「自立支援型介護理論」に基づいた実践活動を開始している、いわゆる竹内セミナーである。この活動を始めて3年目になる。
 現在は竹内理論に基づいた認知症の周辺症状の軽減を目的とした介護方法の確立作業に入っている。
 そこで見えてくるのはスタッフが利用者の周辺症状が何であるかが不明確、それよりむしろあやふやなのである。周辺症状とは日常生活者の常識から見て異常な行動の事である。この異常行動が日常的には利用者に接しているスタッフは分からなくなっているのである。例えば、家族ならば利用者の長い生活の中で異常であることの比較する過去を知っている為、異常行動と指摘できるのであるが、特養における生活はある利用者が常に異常行動をとっていれば、それが当たり前になり異常と認識することさえ麻痺してしまうのであろう。この異常さを私は過度の共感、あるいは過度の奉仕から生まれてくるのであろう。
 このようなことが「介護」には特に「介護の専門職」には常につきまとうのである。
 その落とし穴に落ち込まないために「介護技術」が必要となるし、そのために自立支援型介護の思想、ならびに技術を必要としているのだ。
 このことを分かりやすく具体的に言えば、「ユニットケア」では利用者の「主体性」ある「自立性」を重んじるがあまり「利用者のゆったりした空間・時間を大切にする」と称し、利用者の脇における見守りが大切である等指導したり、されたりする。例えば「おむつ」にしても不快にならないように汚したらすぐ交替するのが利用者介護にとって重要なことであるなど語られたりする。
果たしてそうなのであろうか・・・。それは先に「おむつ」の説明で結論は明確であろう。そうなのである、現在の介護を語るレベルはこの程度なのである。「かわいそう」などという言葉がまことしやかに語られる世界なのである。善意をもって虐待行為をしているのである。このように客観性、科学性を喪失した現場が「介護」現場の一面であることは確かである。

Ⅵ.それでは私どもは何をするのか

 私どもは原理的に「ユニットケア」と「自立支援型介護」は対立概念ではなく、今一番必要な「介護論」あるいは「介護」そのものの概念の確立に向けた2方面からのアプローチ手段であることに気付いた。しかし、現実的にはあたかも「動」と「静」のごとく姿を呈している。そのことは何も介護の方法論に問題が在るのではない。問題なのは「介護現場」なのである。例えば、特別養護老人ホームにあっては法的目的によれば在宅復帰を目指した施設として位置づけられているが、現実の社会的合意としては「終の住居」として位置づけられており、一旦入所してしまえば、誰しも家に再び帰るなど考えないのである。 そこにあっては「在宅復帰を目指す自立支援型介護」など空念仏にしか過ぎないのである。
 一方、「ユニットケア」と称し「個人の持つ時間を大事に、個人のなすがままの空間を保障する」世界にあっては、積極的に「おむつ」をはずしたり、痛い・苦しい思いをしての歩行訓練等は虐待に近いと思われたりする危険が潜んでいるのである。
 要はその施設のもつ社会的役割が不明確なのである。「ユニットケア」の思想を必要とする利用者と「自立支援型介護」がもつ技術を必要とする利用者が混在しているのが、現状の施設なのです。
   特養のもつ2つの役割
  ①在宅復帰トレーニングセンターとしての役割
  ②「終のすみか」としてのターミナルケアを施す役割
 この①・②が分離することなく共存しているのが現在の特養である。一方、先に「動と静」と表現した「ユニットケア」「自立支援型介護」が、各施設ごとに趣を異なって、施設ごとに主張し合っている。私の施設は「ユニットケア」型介護を行っている。また、私の施設は「自立支援型介護」を行っている、などである。
 不毛である。介護現場には当然「ユニットケア」で語られるケアが必要であるし、「自立支援型介護」を必要としているのである。それにも関わらず2者選択のように介護が語られていることが現状の介護現場である。だから不毛なのである。それにも増して今解決しなければならない事は他にある。それは先に記した特養の二つの役割をいかなる利用者にあてはめるかの基準の問題である。
 ターミナルステージに入った利用者に対し、自立支援型介護の方法論は通じないし、自立支援型介護の介護技術を必要としている利用者にターミナルケアの方法論は通じないのである。その人に合った介護方法の確立と各ステージに適した介護技術の確立が今一番必要としている事なのである。
 だからこそ「ユニットケア」で強く主張されている個別ケアと「自立支援」で強く語られている方法論の共存を必要としているのだ。
 利用者が今何を望んでいるかの見極めが大事。今この段階で私どもが目指す介護を明確に言い切ることは残念ながらできない。従って「介護」の普遍性をも表現することは私にはできない。ただ、今言えることは、利用者が今何を望んでいるか、その望みにあった生活スタイルに一歩でも近づけることができれば、幸いである。その為に必要な技術を大系として整理していきたい。この一般論の結論に近づけるために。
 第一に利用者が望んでいることの見極めである。現実の介護現場は利用者の望み、すなわち利用者本人に聞く、あるいは家族に聞く、その要望が利用者の希望であると解釈される。仮にそれを実行して、実現したら利用者のせい、また実行出来なかったことも利用者のせいと結論付けられ、現在はそれがまかり通っている。だからダメなのである。介護の立体性はないのである。先に記してきたが、介護の客観性が必要なのである。利用者に合った介護を実践することによって利用者、家族の要望は一つの要件にしかすぎず、それを中心にして考えることは当然のことにより客観的に処遇方針を決定するのが専門家としての介護なのである。
 この基準で介護を見た場合、一番悩ましいのは、先に記した2種類の役割を有した特養にあってはターミナルステージに入ったことに対する見極めであろう。現在は便宜的に医者にその見極めを依頼しているが、今私たちは力がないからそれに従わざるを得ない。「医学モデル」に合ってターミナルは当然基準があり、それに合ったらターミナルステージと結論付ける。
 私どもはその決定をもとに介護としてのターミナルステージ介護の確立をも必要としている。例えば近年、医療のあまりにも技術的発展を前にして「リビングウィル」等の考え方が定着しつつある。医療に於いてはそのステージに対し、患者としての主張をすることが可能となってきている。
 介護領域に在っては、その領域をも必要としていない。なぜなら医療行為と違い、死の直前まで介護は必要としているからである。
 この課題の中から「介護」を考えていきたい。



 各位へ

    さて、多少長めの文を書いてみました。これは前に自立支援型介護の実践の3ヵ年を書きましたが、それに続くものです。
 経営の必要性から「ユニットケアリーダー研修」に今年もスタッフが何名か参加しました。その報告書は予想通りでした。なぜなら、昨年も同様の報告書を読ませて頂いたからです。昨年、私は何も言いませんでした。しかし、今年は言います。
 ユニットケア研修で感じた実感こそ、今私どもが遭遇している宿題ですと・・。
 何が問題であり、その課題は利用者に如何なる結果あるいは効果を生み出すか、わたしども全員で深堀りする必要があります。
 その一助として私は今の考えを整理してみました。
 一読ください。
 そしてご自身で少し考えてみてください。

金澤 剛

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