2016年の準備のために

 私どものグループが生まれ、11ヶ年を過ぎようとしている。特に私どもが力を込めて実践を開始した自立支援介護を始めてから4ヶ年を迎えようとしています。
 来年を前にして次のステップへステージを拡げることが客観的にも主観的にも必要とされている。そこで今私どもは頭の整理から開始しようとしている。なぜならば今までの実践により、たしかに私どもの「社会的役割」あるいは私どもの場を造ることができたと自覚しているからである。
 そこで次の段階へ進む必要も当然強く感じているからである。その為にまず、「今私どもはどこにいるか」の確認から始めたい。この作業を前提にして次の世界のイメージ作りあるいは活動方針を定めていきたい。
 少し長文になりますがどうぞ御一読あれ。

2015年12月11日



Ⅰ.〈はじめに〉

 私どもは今どこにいるのか

 私どもが「自立支援介護の実践」と称し、いわゆる「竹内理論」に基づく介護実践に全力を投じ4ヶ年になろうとしている。その結果いわゆる「おむつはずし」を完成し。たとえ要介護度4の人も歩行可能となったり、あるいは胃瘻がはずれ口から食事が可能となる人々がごく当たり前であるような情況をつくりあげることができるようになった。すると当然次の課題が生まれ、それは一語で言えば「特別養護老人ホーム(以下特養という)の地域的・社会的役割」の問題とも言える課題である。具体的には特養=終の住処との社会的認識の問題である。例えば、私どもの自立支援介護の実践の結果、それまでベッドに寝ているのが一日であった人が歩きはじめ他人を求め始めたのであった。それは当然、地域あるいは社会を求め、ましてそれに参加を必要とさえし始めたのであった。そしてまた当然地域と隔絶した施設から文字通り地域の中にある、あるいは地域そのものの施設と化すことを必要としはじめたのであった。
 人はあるいは行政は「地域に開かれた特養」であるとか「地域密着型サービス」と称し、住み慣れた地域での施設の運用などを課題にはしているが特養がもつ社会的合意は「終のすみか」あるいは「うばすて山」の概念の域を出ることがない。
 それを一歩進めようとしているのが自立支援介護の実践なのかもしれない。しかし、私どもはその実践の結果、次のハードルが顔前に出てきてしまったのであった。それは、実践の結果身体的には在宅生活を送ることが可能なところまで復帰はするが、その多くの利用者は帰る家をなくした利用者であることが結果的に証明される状況を生んだことなのである。今私どもが抱えている課題は、特養か在宅かあるいは施設生活か在宅復帰かの2元論から、第3の道を見つけ出す事なのかもしれない。得てして私どもは自立支援介護の結果、在宅復帰が実現した利用者を成功例とし、何らかの理由で復帰しない利用者を失敗例あるいは道なかばの利用者と考えがちである。しかし、そうではないのである。
 農村型地域社会の崩壊社会あるいは伝統的家族関係の崩壊社会等言われて久しく、それに変わる地域社会のあり方が問われても久しい。ただ、今私どもが必要としているのは現実的に元気になった特養利用者が自分を確認する場あるいは役割、また参加する場の問題であり、そのような場のある地域あるいは地域社会の問題なのである。それが私どもの「地域包括ケアシステム」なのかもしれない。
 このことは何も言葉の「アヤ」の問題ではない。私どもは現実にベッドから起き出し、かつ帰る家をなくし、かつ現実の地域生活を必要としている利用者がいるのである。その利用者の生活領域を単に「施設」に閉じ込めるだけではない現実の地域の中での生活の保障を今必要としているのである。それを可能としている地域を必要としているのである。だから私どもはそのような地域創りが今の、あるいは今後のしごとなのかもしれない。



Ⅱ.〈特養が生まれるまで〉

 我が国は第二次世界大戦の敗戦から本格的に復興を開始したのは昭和30年代の高度成長期であった。それは昭和39年(1964年)の東京オリンピックあるいは新幹線が走った年であり、そのような時代であり、このころから日本経済はどんどん右肩上がりの時代が始まる前夜でもあった。昭和38年老人福祉法が制定され特別養護老人ホーム、養護老人ホーム、軽費老人ホーム等の施設分類が生まれ老人福祉体系とその前提が出来上がったのもその頃であった。
 さて、その高齢者施設の源流を遡れば近代にあっては明治28年(1895年)に設立された聖ヒルダ養老院の開設にみることができる。それは民間篤志家や宗教家等により設立されたのであった。国の制度としては昭和初期から戦後30年頃までは救護法、生活保護法等に規定された「法定施設」として位置づけられ、それは何も高齢者施設として限定された施設ではなく、貧困者を対象とした保護施設とした救貧施設として位置づけられてきたのであった。
 昭和38年の老人福祉法の制定によりはじめてそれまでの救貧施設から高齢者の特性に配慮された「福祉施設」として高齢者施設に変化をもたらしたのであった。
 それはそれまで養老院(養老施設)と呼ばれた高齢者施設から先に記したそれぞれの役割に応じた各施設に機能分離を計られ全体を通し高齢者施設郡として体系が作られたのであった。しかし、その整理は終戦後にあっては社会体制つくりの中で最後に回ったのであった。終戦後の混乱社会は例えば傷痍軍人や戦災孤児の救済が優先されその解決が喫緊な問題としてあった。そして、戦後復興の本格的始動である高度成長期を前にしての社会体制作りになってはじめて整理が開始されたのであった。
 その結果高齢者施設は一般的な救民施設郡の流れを踏襲し整理が実施されたがどうしても高齢者特性と整理する側の方法とに合わなくなる矛盾を「特別養護老人ホーム」との名称に表れることになったのである。
 それは老人福祉がそれまでの救民政策である生活保護的世界の養老施設の延長から生まれでた為、その内実はそれまでと変わらない「養護老人ホーム」であったため現実に必要な常時介護を必要とする高齢者にとってみて齟齬(そご)が生じるのであった。



Ⅲ.〈高度成長期以降の高齢者社会保障制度の変遷と抱える課題〉

(高齢者対策につきまとう「自立」か「保護」かの課題について)

1.昭和40年代

  我が国はその後昭和40年代に入り昭和45年(1970年)の大阪万博の頃には西ドイツを抜いてアメリカに次ぐ、自由主義社会第2の経済大国になったのではあった。
 一方、当時の社会保障は先進国並みに追いつくというのが合言葉であり昭和36年に国民皆保険制度にはなったが当時の保険給付は5割給付で先進国並みを目指すのが一番の目標となったのであった。
 その結果、昭和48年(1973年)の社会保障改革では老人医療費無料化を達成したのであった。
 一方、同時に年金の改善で年金額の物価スライド、賃金スライド制を入れ、厚生年金は現役時代の6割支給を実現したのであった。このことは一方で自立する高齢者、一方で保護対象等の高齢者を同時に実施する政策であった。この問題こそ時の国家財政に直接左右され解決不能に近い社会保障行政の根本問題として定着したのであった。


2.昭和50年代

 昭和55年(1980年)頃からはじまる社会保障見直し、昭和56年には年金が医療費を抜き社会保障の中心になりこのまま進めば国家財政赤字は増え続ける一方で行政改革を必要とするのは当然の事であった。その対策が「増税なき財政再建」と語られはじめたのであった。それは、国家予算をふやすことなく、民間企業の保険料で社会保障をとの言葉を変えた表現なのではあるがそこで生まれたのが「基礎年金」との概念でもあった。これと同じ考え方で「老人保険制度」を創設した。それは70歳以上の高齢者の医療費を国庫負担割合の高い国民健康保険の老人医療費をサラリーマン等が加入する健康保険組合にて肩代わりする制度を創設し、90年代を迎えるに至ったのであった。

3.昭和60年代(昭和の終わり)から平成へ

 その頃から21世紀問題が現実味をおび、予定されている少子高齢化社会の対応が現実的に語られはじめたのであった。当時、いわゆる高度成長期、そしてそれに次ぐバブル経済、そしてその破綻の時でもあった。経済成長の破綻、低迷する日本経済、一方でのそれまでの年金制度の定着、その結果2000年に入って73年の年金改革によって恩恵を受けた年金受給者が出て不況の中でも老後を年金で暮らせる社会が一時的に生まれたのであった。その社会的背景のもと「介護保険制度」を生み出し定着させる基盤が生みだされたとも言える。このような日本の社会保障制度、特に高齢者対策は常に「自立」と「保護」の矛盾した高齢者像に対する施策であるとも言いかえることが出来る。この施策を実施するにせよ、例えば私どものような介護現場にあっては常に「たてまえ」と「本音」とも言うべき事態を抱えているのである。
 それは理念では自己決定、高齢者本人の意向を尊重するとうたってはいるが、日常レベルの介護現場では家族の都合や、介護サービス側の都合を優先させたいという意志が常に働くのである。
 それは高齢者に自己決定させない高齢者自身もむしろ自己決定できないものと思うような風潮をつくりあげているのが現実の高齢者介護を取り巻く気風である。その結果、高齢者はお世話や保護の対象ではなく能力を持った個人であり過度のサービスが逆に本人をスポイルしていることを自営できなくさせている原因となっているのである。



Ⅳ.介護保険制度の誕生

 平成12年(2000年)公的介護保険制度が施行。日本社会にとって21世紀最大の問題である、少子高齢、人口減少社会化問題に対応する為の法整備として完成。その結果、先の老人福祉法に規定された高齢者福祉施設と介護保険法に規定された施設として特養が存在することとなったのであった。また、それはそれまでの行政福祉の対象を支える措置制度から、個人責任とする契約概念への変化でもあった。そのことは日本の社会福祉制度、なかんずく高齢者福祉にとってみて「歴史的変化」とも言えることなのである。それまで世の東西を問わず、また時代の新旧を問わず、全て高齢者施設は貧困救済施設あるいは慈善事業対象施設であったものがそのサービスを必要とする個人がそのサービスを提供する側との契約へと変化したのであった。
 そのことは言い換えれば、高齢者を支えるのが家庭のしごととして社会的合意がなされていたものが社会全体の「しごと」として位置づけられることにもなる。それほど地域の共同性のあり方が変化したとも言い換えることができるのである。また、その社会構造の変化とあいまって少子高齢化、人口減少社会は当然それに対応した社会保障制度の構築の必要性を生み、その解決策の合言葉が「地域包括ケアシステム」として国より提示されたのであった。



Ⅴ.特養の位置づけの時代的変化について

 特養は「終の住処」なのか「可能な限り居宅における生活の復帰をめざす施設」なのか?
 昭和36年老人福祉法が施行されて以来、特養の社会的役割は揺れている。それは「終の住処」としての特養、また一方で法の規程で語られている「可能な限り居宅における生活の復帰をめざし~」(老人福祉法17条2項:特別養護老人ホームの設備及び運営に関する基準第2条2項)の一見矛盾する社会的役割の位置づけにより揺れている。
 そのゆれの直接的な原因は常に時の社会保障財源との直接的関係に起因している。


1.小泉政権時代について

 それは今まで常に揺れてはいたが、その端的な例は2009,2010年の小泉政権時代に断行した社会保障費抑制政策に見ることができる。それは2006年6月の経済財政諮問会議の「骨太の方針」の中で社会保障費の自然増を今後5ヶ年で毎年2200億円を抑制するとの政策にもとづいてのことである。そのため介護保険分野でも介護保険施設の食費、室料の自己負担化や「新・予防給付」導入による介護給付費の抑制、また突然の介護療養病床の廃止等の方針が矢継ぎ早に出されました。この流れとして厚労省は2005年7月の社会保険審議会、医療保険部会などでターミナル期も含めて「病院等に依存せずに住み慣れた地域での生活を継続」そのため「施設を一元化して最終的には在宅として位置づけ、必要なサービスを外部から提供する」仕組みとする。
 その結果、「自宅での死亡割合を4割に引き上げると2025年度に約5000億円の医療給付費を節減できると試算を発表提示したのであった。
 これが端的な特養の位置づけでありこの政策の延長線では特養不用論に結び付くのは当然の事であった。このことこそ皮肉なことではあるが先に記した2種類の考え方を止揚した考えなのかもしれない。その「特養解体論」に対し全国老人福祉協議会などは反発するのは当然の事ではあった。


2.終末期医療について

 小泉政権時代に提示された厚労省案は一旦決着がついた。終末期医療にかかる医療費問題の蒸し返しであった。それは例えば2006年に日本医師会から提示された『「ふたたび終末期医療について」の報告』等で理論的にも倫理的にも完全に否定された論理を再び持ち出し、そのうえでの推計であった。
 そのことは何も日本医師会のそれにより初めて否定されたことではない。
 1997年から3ヶ年間に及ぶ終末期ケア論争ですでに完全に結論付けられたことであった。その結論とは2000年に医療経済研究機構が提示した「終末期におけるケアに係る制度及び政策に関する研究報告書」である。
 死亡前1ヵ月に限定した終末期医療費総額は国民医療費の3.5%にすぎず、死亡直前の医療費抑制が医療費全体に与えるインパクトはさほど大きくない。従って医療費抑制を根拠とした在宅医療は根拠が薄れたのであった。それはすでに2000年には決着がついたことなのであった。  このように在宅か、施設かの2元論は社会保障費を物差として考える課題ではなくなったのではあったが、今でも時としてあるいは事あるごとに政策の課題として語られたりするのである。
 2013年1月21日に開かれた社会保障制度改革国民会議で時の麻生太郎副総理財務相は「死にたいと思っても生きられる政府の金で高額医療をやっていると思うと寝覚めが悪い、さっさと死ねるようにしてもらう」また「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」と財政負担が重いと語っている。



Ⅵ.「死場所」について

 このような状況の中で私どもはそろそろ問題を整理することの必要性を日常のしごとの中で強く感じているのである。その問題整理の核は社会保障財政上の問題は前提として、それより「死に場所」を、あるいは「死に方」を保障するあたり前の社会構造の整理として考えていきたい。それは言葉を変えれば「高齢者の自立を支える」のが高齢者福祉の核であり、一方で保護政策が核であるとの2面性としての整理の方法であり、それからの脱却とも言える。


1.高齢者に自立を求めるのか保護対象として見るのか

 私どもの4ヶ年弱の自立支援介護の実践の中で常に問題として課題化し、また、今でもハードルとして乗り越えることに苦労しているのが「家族」の問題である。いわば、日本の地域社会の基礎イデーである農村型共同性、そしてそれからくる価値観は高齢者は家族で支えるまた、そのようなことが可能な社会構造であった。しかし、それが完全に崩壊しつつあるのが現在の状況であり、それが現実である。
 例えば、特養入所は「家族介護」が不可能になった故の結論である。それ故に特養から在宅への復帰は家庭問題の整理なくしてありえない時代状況となってきているのである。
 この現状の中で介護の現場では介護の理念上では自己決定、高齢者本人の意向の重視とうたってはいるが、現実は家族の都合やお世話の都合を優先させ、現実的には逆に高齢者に自己決定させない秩序を作りだしている。その理念と現実の狭間が私どものハードルとして常に存在しているのである。


2.「在宅死」は時として「孤独死」を作りだす

 私は先に平成5年を境に在宅死割合が底をうち、その後は一定の割合で維持されている。その中で東京圏、大阪圏を中心とした大都市では増加しているがその約4割は「孤独死」なのであると記した(2014年8月19日記・今《特養》に何が必要か)。このことこそ今後の高齢者問題の凝縮された問題である。
 日本の家を中心とした地域社会秩序あるいは共同性が21世紀になり完全に崩壊過程に拍車がかかり、地域社会が崩壊した結果、国民は個に分断され例え介護が必要になったとしても個によるサービス主体との契約によりそれが保証される社会となりつつあるのである。
 そのことは当然契約主体を持ちえない個は介護サービスさえ受けることが本質的には出来なくなりつつあるのである。その逆の証明が「孤独死」であり、それは家族崩壊のみならず地域崩壊のバロメーターとさえなっているのである。



Ⅶ.2025年問題における「特養」あるいは「地域包括ケアシステム」における特養

1.ICFの定着

 少子高齢、人口減社会の高齢者対策として「地域包括ケアシステム」が語られて数年が経つ。
 一方、私どもの「自立支援型介護」の現在の到達点は先に記してきたように「元気な老人」を生むことが日常と化している。しかし、その「元気老人」は帰る家を失くしている。また、それにもまして帰る「地域」をもなくしているのが現実なのである。
 一方、介護保険制度を支えている根底の考え方が「自立」とのメインテーマに絞られつつある。その為に例えば本年の介護保険診療報酬制度改定の中でも高齢者の生活機能の維持改善に主力が注がれ、その機能改善があたかも国策であるかの勢いで語られたりもしている。その流れは改めて言うまでもなく当然のことなのである。  人は何も一人で生まれているわけでは無い。人の生活機能とは「人が生きること」全体であり生活機能とは心身機能あるいは構造、活動、参加の総合的関係をすべて包括して初めて成り立つのである。従って人の健康な生活とは「地域社会」があって初めて成り立つ事であり、また「地域社会」とは人の健康が保障されてはじめて成り立つ相互作用をもたらすのである。
 このごく当たり前の考え方が強く打ち出されたのが今年のその改正でもあった。
 それはなにも診療報酬改定に限られたことではない。それは一方で「地域包括ケアシステム」の構築が今後の高齢化社会にとって必要不可欠であるとか国策を推進する根柢の考え方をもそうであるがためである。言葉を変えれば人の捉え方をICFにてとらえはじめたからでもある。


2.特養に必要な地域

 先にも記してきたが社会構造の問題としてあるいは社会的合意の問題として特養は終の住処である。だが、しかし私どもの自立支援型介護の実践の結果、成果があがった利用者は地域の関係を必要とし始めたのである。
 今私どもはこのハードルを乗り越えることが出来なく停滞しているのである。だが、それを推し進めるのは「地域」の関係の中に利用者が身をおくことしかないことを知っている。その関係の中に利用者本人の役割を見出し自己確認をすることこそ、このハードルを乗り越える結果であることも知っている。
 今私どもは「地域」を求めている。それは私共自身が特養のもつ固定概念を自身の手で打ち破り、特養自身が地域の中に入り込む必要を感じているのである。一方「地域側も」地域の一因子として特養を位置づける必要がある。
 それは何もボランティアが施設に慰問するのではなく、あるいは家族が知り合いが「お見舞い」にくる場所としての施設ではなく、ごく隣の家にあそびに行くように日常の中に「特養」が位置づけられているような地域にそれを変化させる必要があるのだ。その関係が生まれると初めて特養は終の住処なのか、在宅復帰のトレーニングセンターなのかの2元論から脱却できるのであろう。


3.「地域包括ケアシステム」における特養

 国は2025年問題の解決策として「地域包括ケアシステム」構築を進めている。その推進策として昨年6月に医療介護総合確保推進法を成立させ医療、ならびに介護の総合力をもって地域つくりを推し進めている。そのあるべき図を見ると、源流にあたる川上部に急性期病院が位置、様々な機能を有した医療機関がまるでトコロテンが流れるが如く、患者、利用者の流れを保障している。そして、その様々な機能を有した期間を生活圏=地域の中に完備しようとしている。それが「地域包括ケアシステム」の構図となっているのである。その絵の中で特養は常に次に継ぐことのない終着駅として位置しているのである。終の住居なのである。
 これで長く語られてきた2元論に結論付けられてはいるが、私ども現場は日常の自立支援介護の実践の現場は特養のポジショニングに対し、やはり違和感をもつのである。現実の特養の利用者の過半は「天国」にいくのはまだ早い人達なのである。「天国」よりも「地域」を必要としている人達が過半なのである。例え介護度が3以上に入所制限したところで。
 しかし国策としての「地域包括ケアシステム」上は特養は最終駅と結論付けられている。
 そこに私どもの「しごと」が待っている。社会的に終の住処として位置づけられている特養から元気を取り戻した高齢者をどんどん輩出していこう。その現実をもって「終の住処」としての特養と「地域復帰トレーニングセンター」としての特養の役割分離制度的に認めさせよう。


4.自立支援介護の地域化

 「おむつ」をはずす特養、あるいは要介護状態を改善する特養、認知症の周辺症状を改善する特養、胃瘻を抜去し常食を食する特養から、「おむつ」をしない地域、要介護状態にならない、あるいは改善する地域、認知症の周辺症状を改善する地域、胃瘻を抜去し常食を食する地域」を目指そう。
 それが私どもの地域包括ケアシステムであるし、それが私どもの地域特養の姿であろう。それを達成する方法は、当然竹内理論に基づき実践したこの4ヶ年弱の経験を現実の地域にて実践することなのである。
 そのために明日から苦労するか。



2015年12月11日
金澤 剛


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  5. 2016.04.28  災害対策本部解散
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  7. 2015.12.11  2016年の準備のために
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